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個人の主体性を引き出す可視化の方法を探求する(自主企画『 グラフィック・ジャム 』)

REPORT
Hikaru Mizunami
2018.11.16
個人の主体性を引き出す可視化の方法を探求する(自主企画『 グラフィック・ジャム 』)

ワークショップ実践者であれば、グラフィック・レコーディングやグラフィック・ファシリテーション(通称グラレコ/グラファシ)といった言葉を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。これらは、ワークショップや対話を記録するための手法として、広く知られています。ミミクリデザインでも、これまで開催してきたほとんどの講座や研究会で、グラフィック・レコーディングを取り入れてきました。
 
参考:公開講座「課題解決のための グラフィック・レコーディング 入門-議論を可視化し、揺さぶるファシリテーションの手法を学ぶ」【イベントレポート】
 

 
そんな中、議論の可視化の手法における新たな可能性を探求するために、2018年10月25日、ミミクリデザインの坂間菜未乃と小林実可子による自主研究会が開かれました。
 

坂間は既存のグラレコ/グラファシがワークショップの記録や、参加者間の共通認識・共通理解の形成には非常に役に立つものであるとする一方で、参加者個人に眠る主体性が発露されることを目的として、そのために特化させた新たな場の作り方・関わり方があるのではないか、と話します。
 

坂間 グラフィック・レコーディングは、名前の通り、レコーディング(記録)として使われているよね。ワークショップをやっている傍でひたすら描いていく。終わると同時に完成している。みんなが出来上がった絵を見て、「綺麗にまとまってますね」みたいな話をして、パシャって撮って、終わり……というのは、私自身グラレコをやるけれど、すごく勿体ないなという気持ちがずっとあったんだよね。
 
ワークショップを記録するための手段として、グラフィック・レコーディングが有効なのは間違いないと思う。だけど同時に、視覚化の暴力性みたいなものを感じていて、私が描いたグラフィックや言葉が、本来みんなが自分で考えて、言葉にして、意味づけするものに、いきなり形を与えてしまっているように思うことがある。間違っていることを描いているつもりはないから、見た人には「うんそうだよね」と納得してもらえる一方で、納得させてしまうからこそ削ぎ落とされてしまう個々の経験とか、意味づけがあるはずだから、それらをもっと活かせる可視化の方法を考えたい。

 
「自分の話したことが違う人の手によって描かれている」という状況を強調し、その結果参加者のなかで生まれた違和感をあえて自由に表出させる機会を設けることで、主体性を引き出していくような関わり方がグラフィックの描き手には可能なのではないか、と坂間は話します。そしてそのようなやり方を“グラフィック・ジャム”と名付けた上で、小林に話してみたところ、今回実験的に対話の場を開いてみることになりました。
 
具体的には「ミミクリと私」というテーマで、参加者として集められたミミクリデザインの比企と田中(優)に小林がインタビューを行い、ミミクリデザインとの関わり方や個人的な考え・思いについて深掘りしていきます。そして、坂間がその内容をグラフィックに描きながら、合間に参加者が「会話が描かれること」についてどのように感じているのかを、適宜フィードバックしていくかたちで、進められました。

 

小林 (坂間が描いた絵を見ながら)この絵だと、モヤモヤを抱きかかえているイメージだよね。でも私が感じたのはそうではなくて、もっと、なんていうんだろう…。
田中 僕のイメージだと、もっと張り付いてる。
小林 そうそう。

 

田中 途中から意図的に絵を見ないようにしていました。そっち(グラレコ)を見ると、自分の言葉で話せなくなる感覚があって。

 

比企 抽象的な理論や進行の流れのような普遍的なものがグラフィックとして表象されていても違和感は感じない。だけど、例えば、自分の過去のある体験とか、具体的だけど言語化できないエピソードが図や絵に表されていると、違和感というか、「本当にこんなふうだったっけ?」という強烈なフィードバックがかかって、考えさせられる。

 
途中、「ペン、借りてもいいですか?」と言って、参加者である田中自らがペンでグラフィックに付け加えたり、また、坂間が参加者の話を“深める”ために、いわばメモ書きとして自分の思考を殴り書きすることで、逆に参加者の思考を促す刺激となり、双方向的に理解を深めていくシーンがあったりと、普段の記録として用いられるグラフィック・レコーディングでは見られない光景が、随所に展開されていました。
 
今回坂間は「参加者の主体性を引き出すための(暫定的な)工夫」として以下の点を挙げながら、現時点での考察を話していました。
 
・描き手(坂間)自身が主観的に描くこと
・余白をあえてつくること
・具体的に書き込みすぎないこと

 

坂間 今回実験をするまえに、仮説として「普遍的でないもの・共通理解が容易ではないものをあえて積極的に描くことで、見た人に思考を促すような状況がつくれるのではないか?」というのを考えたんだよね。でも私が本来目指していた「参加者の主体性を引き出して、深い相互作用を起こす」という目的を達成しようとしたら、人と話題によって、抽象的に描くべきなのか、しっかりと描くべきなのか、色々な点が変わってくる。
 
おそらく「ある影響を起こすためにどのように描くと良いか?」という命題ではまだ不十分なのだと思う。機能ありきの話で考えてもまだ不十分で、私が描くという行為とグラフィックが生むインタラクションによって、何が自然発生的に生まれてくるのか、合目的的ではない眼差しで捉えていくことが大事なのだろうと思いました。ありがとうございました。

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