TOPへ

BLOG

ファシリテーションの実践知をカウンセリングの観点から考察する|ミミクリの本棚 vol.4『 技芸(アート)としてのカウンセリング入門 』

ESSAY
Hikaru Mizunami
2018.09.30
ファシリテーションの実践知をカウンセリングの観点から考察する|ミミクリの本棚 vol.4『 技芸(アート)としてのカウンセリング入門 』

本書に表現されている私の考え方の顕著な特徴は、カウンセリングを技芸(アート)として見る見方にあります。カウンセリングを、科学や学問としてよりも、技芸として見る。私は、カウンセリングは、端的に言って、音楽や演劇やお笑いなどのパフォーミング・アートの一種だと考えているのです。


こんにちは、ミミクリデザインの水波です。
ワークショップの学習に役立つ書籍を紹介する「ミミクリの本棚」シリーズ。第4回となる今回は、これまでとは趣向を変えて、他の領域の書籍を題材にしていきます。
 
選書したのは、杉原保史(京都大学学生総合支援センター教授)さんの著作「技芸(アート)としてのカウンセリング入門」。これまで紹介してきた書籍とは異なり、この本では「ワークショップ」あるいは「ファシリテーション」といった言葉は一切登場しません。
 
それでも読み進めていくと、自分と他者の違いを認めながら情動的で深いコミュニケーションが求められるなど、カウンセリングとファシリテーションには「人と人との関わり方」の面で多くの類似点があるように感じました。
 
表題にもなっているように、この本では、カウンセリングをバレエや落語のような「技芸」の一種として捉え、カウンセラーが一人のプレイヤーとして熟達していくために必要な観点が示されています。今回の書評では、ファシリテーションも同様に技芸として捉え直したうえで、類似するポイントをいくつかピックアップしながら、上達の糸口を掴んでいけたらと思っています。
 
 

技芸としてのファシリテーション

ワークショップ実践者の方々と話していると、その方の実践歴や領域に関わらず「ファシリテーションは難しい」というようなお話をよく伺います。また、以前私たちが開催した「ファシリテーションの困難さをめぐる公開研究会」では、領域ごとに多種多様な困難さがあることを認めつつ、あくまで暫定的な考察ではあるものの、熟練者が状況に応じて発生する困難さを独自の経験に基づいて蓄積された実践知を用いて乗り越えているのではないか、との可能性が示唆されていました。
 
良くも悪くも偶然性の強い活動であるワークショップにおいて、どれだけ万全を尽くしたところで、避けられない困難やトラブルは確かに存在します。そのため、防げるトラブルは未然に防ぎながらも、どうしても防げないものについては、自前の能力や技術によって、どうにか好転させていくしかありません。ところが、それらの能力を、本を読み、理論を学ぶだけで身につけようとしても、なかなか難しいのが実情でしょう。野球が観戦しているだけでは上手くならないのと同じように、プレイヤーとして熟達していくためには、たとえ下手であってもとにかく人前に立って、実践を通じて腕を磨いていく必要があります。
 
ファシリテーションだけでなく、今回題材とする「技芸(アート)としてのカウンセリング入門」では、カウンセリングも、学術によって支えられる部分も多くあるものの、基本的には音楽や演劇、お笑いと同じパフォーミング・アートの一種であり、上達するためには身体的かつ実践的なトレーニングが欠かせないと主張されています。
 
確かに本から実際的な能力を身につけることが難しいのは間違いありません。しかし、本を通じて、実際に活躍するエキスパートたちが、どんな視座で現場に臨んでいるかを知ることには大きな意味があるでしょう。今回の「技芸(アート)としてのカウンセリング入門」は、まさしくそのようなプレイヤーとして必要な態度や視座について仔細に記述された一冊となっています。
 
それでは、ファシリテーションやカウンセリングなど、機微のある生身の人間を相手にしたコミュニケーションにおいて求められる態度・視座について、例を挙げながら紐解いていきます。
 
 

言語的ではなく音声的コミュニケーションに着目する

この本では、カウンセリングの腕を磨くために意識すべき身体的な観点がいくつも例示されていますが、なかでもカウンセラーの「声」の重要性は繰り返し述べられています。
 

カウンセリングにおいては、「何を言うか」もさることながら、それを「どのような声で言うか」が決定的に重要なのです。しかしながら現在のカウンセリング論においては、一般に、「何を言うか」ばかりが強調されすぎていて、「どのような声で言うか」に対する注目が不当なまでに小さいように思われます。(中略)まったく同じセリフを用いても、それを演じる役者の声や姿勢や視線や間合いの取り方などの身体表現にありようによって、とても魅力的な芝居にも、まるでつまらない芝居にもなるうるのと同じことです。

 
「声」のほかにも、姿勢の取り方、あいづちの打ち方など、言語的でなく身体的に相手を安心させるコミュニケーションにとって大切な観点と、それらの観点を実力として伸ばしていくために必要な態度について、理知的でありながら、アツく語られています。また、カウンセリングを主題とした本であることから、当然傾聴の態度についても注意すべき点が詳しく述べられています。そしてファシリテーションも、カウンセリング同様、伝える力・聴く力を見るだけでその人の実力の大部分がわかると言っても決して過言ではありません。
 
 

与えられたフレームワークといかに向き合うか?

また、カウンセリングという行為そのものとの向き合い方として、著者である杉原さんは本のなかでこのように話します。
 

結局のところ私は、「カウンセリングとはこういうものだという、あらかじめ固定された考えに縛られること自体が、まったくもって非カウンセリング的だ」という考えを抱いているのです。(中略)むしろ、「カウンセリングとはこうするものだ」というあらかじめ人から与えられた枠組みで自分を固く縛ることは、あなたの中の援助のリソースを深く休眠させてしまう危険性があります。

 
ここで述べられていることは、先に紹介した「ファシリテーションの困難さをめぐる研究会」のなかで、進行を務めた青木翔子が最後に述べた「ファシリテーターは省察的実践者であり続ける必要があるのだろう」という趣旨の話とも一致します。ファシリテーターには、「ファシリテーターとしてこうあるべきだ」や「ファシリテーターなのだから、こうしなければならない」という固定観念を常に疑いながら、「ファシリテーターとして」ではなく、自分自身として何ができるのか、場の目的や果たすべき責任を違えないように気を配りつつ、考え、実行していくことが求められます。
 
“ありのままの自然体で臨みましょう”と、言うことは簡単です。しかし、実際に行うのはとても難しく、またそれ以上に怖いことでもあります。また、人と人が直に関わる以上、相性の問題もあるでしょう。だからこそ、自分がプレイヤーとして何が得意で、どのような心構えを大切にしているのかを自覚すること、今後どんなプレイヤーでありたいかを見定めること、確かな実践力を持つプレイヤーとして豊かに育っていくためには、枠組みや技法に頼るのではなく、まずはそのような土壌から育てていくことが重要なのだろうと、巻末のあとがきに込められた著者・杉原さんの熱いメッセージを読みながら、感じました。
 
※引用部の太字は筆者による。
 

その他「ミミクリの本棚」シリーズはこちら

深い学びを生み出す“場”のつくりかた|ミミクリの本棚 vol.1『 「未来の学び」をデザインする -空間・活動・共同体 』
 
ワークショップに必要不可欠な「楽しさの中にある学び」の真髄にせまる|ミミクリの本棚 vol.2『プレイフル・ラーニング』
 
多様なメンバーの力を引き出すファシリテーションのあり方|ミミクリの本棚 vol.3『 かかわり方のまなび方 』

PICKUP